『楽園への道』の解説に翻訳者の田村さと子さんが書いている年譜です。最後のノーベル賞受賞だけ付け足しました。

マリオ・バルガス・リョサ年譜

マリオ・バルガス=リョサ年譜
田村さと子 作成 「楽園への道」より

1936年
3月28日ペルー南部のアレキーパで、父エルネスト、母ドーラの 長男として生まれる。父母が別居していたため、母方の祖父母の家 で一人っ子として育てられる。

1937(1歳)
祖父が領事としてボリビアのコチャバンバに赴任するのに伴って転居。小学校の4年間をラ・サール学院で学ぶ。

1945(9歳)
ペルー北部のピウラに引っ越す。小学校の5年生をサレジオ学院 で学ぶ。

1946(10歳)
両親が和解したため、父の住むリマに引っ越す。小学校の6年生から中学校の2年生までをラ・サール学院で学ぶ。

1950(14歳)
リマにある国立レオンシオ・プラド士官学校に入学し、5年制中学校の3、4年生を過ごすが、5年生のクリスマス休暇に中退。

1952(16歳)
ピウラに戻り、国立サン・ミゲル学院で中学校の最終学年を終える。地方紙のコラムニストとして文筆業を開始する。7月、文部省主催の学生演劇コンクールで2位となった自作の戯曲『インカの逃亡』を演出して上演。

1953(17歳)
リマに戻り、国立サン・マルコス大学で文学と法律を学ぶ。卒論『ルベン・ダリーオ解釈のための基礎』を書き、58年に卒業する。

1955(19歳)
フリア・ウルキディと結婚。最初の短編小説を発表。ジャーナリストとして「エル・コメルシオ」紙や雑誌に記事を書く。

1957(21歳)
短編小説「決闘」で雑誌「ルヴュ・フランセーズ」主催の文学コンクールで1位となり、副賞としてパリに招待される。

1958(22歳)
アマゾン川流域の先住民調査隊に同行する。ハビエル・プラド奨学金を得て国立マドリード・コンプルテンセ大学で博士課程を学ぶために留学。

1959(23歳)
短編集『ボスたち』により、スペインのレオポルド・アラス賞を受ける。8月にパリに移り、語学学校ベルリッツでスペイン語の教師をしたり、フランス・ラジオ・テレビ放送協会でジャーナリスト として働いたりしながら、7年間近くを過ごすことになる。

1963(27歳)
前年、セイクス・バラル出版社主催のブレベ図書賞コンクールで最優秀作として選ばれた『都会と大ども』が刊行される。同作品によ り、スペイン批評家賞を受けるが、フォルメントール賞では次席と なる。

1964(28歳)
ペルーに戻り、以前、調査隊の一員として訪れたアマゾンの密林地帯を旅する。フリア・ウルキディと離婚。

1965(29歳)
キューバのハバナでカサ・デ・ラス・アメリカス文学賞の審査員を務める一方で、雑誌「カサ・デ・ラス・アメリカス」の編集委員と なる。パトリシア・リョサとリマで結婚してヨーロッパに渡り、74 年まで、パリ、ロンドン、バルセロナに住む。

1966(30歳)
小説『緑の家』を発表してスペイン批評家賞を受ける。ニューヨークで開催されたペン世界大会に招かれる。長男アルバロ誕生。

1967(31歳)
中編小説『子大たち』刊行。『緑の家』によりペルー国民小説賞及びベネズエラのロムロ・ガジェゴス文学賞を受ける。パリでサルトルやボーヴォワールなどとともにペルーの政治囚の擁護を表明。ロ ンドンのクイーン・メリー・カレッジで教える。次男ゴンサロ誕生。

1968(32歳)
ワシントン州立大学の客員教授として7メリカに滞在。

1969(33歳)
小説『ラ・カテドラルでの対話』刊行。また「ティラン・ロ・ブランによる戦いの手紙」をジュアノット・マルトゥレイの騎士道小説『ティラン・ローブラン』の新版のプロローグとして刊行。ロンド ンのキングス・カレッジで教鞭をとった後、プエルトリコ大学の客員教授としてリオ・ピエドラスに滞在。

1970(34歳)
バルセロナに転居。

1971(35歳)
小説『緑の家』執筆の過程を明らかにした『ある小説の秘められた来歴』及びマドリード大学に博士論文として提出した『ガルシア=マルケス−ある神殺しの歴史』刊行。パディジャ事件により、キューバ革命と決別する。

1972(36歳)
映画関係の仕事にかかわるようになる。マルティ・デ・リゲールと『架空の戦闘』刊行。

1973(37歳)
小説『パンタレオン大尉と女たち』刊行。

1974(38歳)
長女モルガナ誕生。ペルーに帰国。

1975(39歳)
評論『果てしなき饗宴-フロベールと「ボヴァリー夫人」』刊行。コロンビア大学の客員教授となる。映画『パンタレオン大尉と女た ち』の監督をホセ・マリア・グティエレスとともに務める。

1976(40歳)
国際ペンクラブ会長に選出される。

1977(41歳)
小説『フリアとシナリオライター』刊行。ペルー言語アカデミー会員に推薦される。ケンブリッジ大学客員教授としてシモン・ボリーバル講座を78年まで担当する。

1979(43歳)
バルセロナの新聞社〈ラ・バングアルディア〉からラモン・ゴドー・ラジャナ・ジャーナリズム賞を受ける。国際ペンクラブ会長と して来日。スミソニアン学術協会の招聘を受けて80年までワシン トンDCに滞在。

1981(45歳)
戯曲『タクナからのお嬢さん』刊行。同作品がブエノス・アイレスを皮切りに20カ国で上演され、アルゼンチンで年間批評賞。小説 『世界終末戦争』、評論『サルトルとカミュの間で』刊行。テレビ番組「バベルの塔」のディレクター兼司会を務める。

1982(46歳)
文学業績に対してペルー共和国議会より勲章を受ける。

1983(47歳)
戯曲『キャッシーと河馬』刊行、同作品がカラカスで上演される。評論『風と潮に抗って』刊行。ベラウンデ大統領の依頼により、アンデスのウチゥラカイで村民によって8人のジャーナリストが殺害された事件の調査団の団長を務める。

1984(48歳)
小説『マイタの物語』刊行。

1985(49歳)
『世界終末戦争』により、リッツ・パリ・ヘミングウェイ賞を受ける。フランス政府からレジオン・ド=ヌール勲章を受ける。

1986(50歳)
収録数を増した評論『風と潮に抗って』を2巻本の形で刊行。 曲『ラ・チュンガ』刊行。同作品がリマで上演される。小説『誰がパロミーノ・モレロを殺したか』刊行。スペインのアストゥリアス皇太子賞を受ける。

1987(51歳)
小説『密林の語り部』刊行。ガルシア大統領の打ち出した銀行国有化政策に反対する市民運動を組織する。フランス文化省より芸術文学勲章を受ける。

1988(52歳)
ペルーで政治運動〈自由運動〉を創設し、二大保守党を糾合して〈民主戦線(フレデモ)〉を形成する。これが1990年の大統領選へとつながっていく。アメリカのシラキューズ大学の客員教授として 自作に関するセミナーを聞く。小説『継母礼讃』刊行。

1989(53歳)
〈民主戦線〉は政府基本綱領を調印し、正式の大統領候補として擁立される。『密林の語り部』により、イタリアのリッツォーリ出版社からスカンノ賞を受ける。アルチュール・ランボーの小説『僧衣の下の心』を翻訳し、序文をつけて刊行。

1990(54歳)
評論『風と潮に抗って』の3巻目を刊行。文芸エッセイ『嘘の真実』刊行。6月10日大統領選の決戦投票に敗れてペルーを去り、ロンドンヘ向う。シチリアのカスティリオネ賞を受ける。フランス のドーヴィルで『フリアとシナリオライター』を映画化したジョン・アミエル監督の『ラジオタウンで恋をして』を上映。

1991(55歳)
フロリダ国際大学の大学院生のために講義。アメリカのインガソル基金からT・S・エリオット賞を受ける。ティラン・ロ・ブランに関 する評論『ティラン・ロ・ブランによる戦いの手紙(1969、70、71、91)』刊行。

1992(56歳)
ボストン大学、ジェノバ大学から名誉博士号を受ける。ハーバード大学の客員教授としてアメリカに滞在。

1993(57歳)
プリンストン大学の客員教授を務める。回想録『水を得た魚』刊行。また戯曲『バルコニーの狂人』を刊行し、ロンドンで上演される。 小説『アンデスのリトゥーマ』を発表、プラネタ賞を受ける。スペ イン国籍を得る。

1994(58歳)
スペイン王立アカデミー会員に選出される。イェール大学から名誉博士号を受ける。評論『自由への挑戦』刊行。文学業績に対してミゲル・デ・セルバンテス賞を受ける。

1996(60歳)
ホセ・マリア・アルゲダスを論じた評論『懐古的ユートピア』及び戯曲『かわいい瞳、醜い絵画』刊行。

1997(61歳)
フランクフルト・ブックフェアで「平和賞」受賞。小説『官能の夢』、エッセイ『若い小説家に宛てた手紙』刊行。

2000(64歳)
小説『ヤギの祝宴』刊行。

2001(65歳)
評論『情熱の言語』刊行。

2003(67歳)
小説『楽園への道』、ルポルタージュ『イラク日記』刊行。

2004(68歳)
ビクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』を論じた評論『不可能の誘惑』刊行。

2006(70歳)
小説『バッド・ガールのいたずら』刊行。

2007(71歳)
戯曲『戯曲、オデュッセウスとペネロペ』刊行。

2010(74歳)
ノーベル文学賞受賞
 


 
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